加賀信広(筑波大学教授)
英語の語法の話を1つ。学生の卒業論文や修士論文で、場合によっては、名の通った言語学の先生がお書きになった論文においても、on the contraryという副詞的表現が誤って用いられている事例が散見される。「反対」を表すcontraryが含まれているので、「逆に」「他方」などの意味に解されて、on the other handが用いられるのと同様の文脈で用いられてしまうことも多い。それでよいのだろうか。
四半世紀前のことになるが、英作文のクラスで金子稔先生(筑波大学名誉教授)は次のようなことをおっしゃった。「On the contraryは普通、対話文と、文章の場合には否定文の後に出てきます。」これ以上の詳しいご説明を金子先生はなさらなかったが、辞書などで確認すると、確かにその通りで、次のような例はだいたいどの辞書でも見ることができる。
(1) Have you finished the book?―On the contrary, I’ve only just begun.
(あの本は読み終わったの。いえいえ、まだ読み始めたところです。)
(2) It isn’t cold; on the contrary, it is hot.
(寒くないよ。それどころか、暑いぐらいだ。)
英英辞典を見ると、on the contraryの意味として「前に述べられたことを強く否定して」ほどの定義が与えられている。(1) の対話文では、質問に対して否定的な返答を行なっているが、on the contraryは否定の導入の働きをしている。(2) の文では、「寒い」ことを否定して、「暑い」との主張がなされている。ここで注意すべきは、(2) において否定されているのは、前の文の否定(not)を除いた部分だという点である。つまり、on the contraryの前後で確かに対立することが述べられているけれども、片方は否定的に提示されているのであるから、全体として分裂した内容にはなっていない。(2) において、話し手はまず、on the contraryに先行する文で「寒い」ことを否定し、次いでon the contraryをはさんで、さらに畳み込むような形でそれと対極をなす主張「暑い」にまで結論を引っ張っていっている。このような論の進め方をする場合に、on the contraryはぴったりはまる表現となる。日本語では、「それどころか」などの表現が対応することになろう。
肯定文の後にon the contraryが出てきた場合はどうであろうか。On the contraryの前後で対立したことが述べられるのであるから、そのつながりでは話し手の一貫した主張を表すことができなくなり、結果として文章が破綻してしまうことになると考えられる。したがって、対話文を除けば、on the contraryが生じうるのは、否定文の後という文脈にほぼ限られることになる。ただし、学術論文などで、対立する2つの立場を仮定して論を進めるような場合には、必ずしも矛盾した主張を行なうことにはならないので、否定的文脈でなくてもon the contraryが登場することがある。たとえば次のような場合である。
(3) If the linguistic rule is a true universal, (中略).
Suppose, on the contrary, that the linguistic rule is learned. (後略).
(もし、言語規則が真に普遍的なものであれば、~。
翻って、言語規則が習得されるものであると仮定してみよう。~)
(3) は生成文法の始祖チョムスキーの本から取った例であるが、言語規則が生得的で(したがって人種に普遍的で)あるか、後天的に習得されるものかを議論している箇所に出てきている言い回しである。生得説と習得説が相容れない立場として仮定されているこのような場合には、訳語としては「翻って」などが適切になるようである。 四半世紀前に、英語の理解は日本語訳ではなく、表現の中核的な意味や根本的な機能を押さえることが重要であると金子先生に教わったと思っている。
2008年6月20日 掲載