佐藤武義(東北大学名誉教授)
夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭部分に女中を意味する「おさん」が登場する。この「おさん」がどうして女中を意味するのか、長い間疑問であった。しかし、その後、他の研究にかまけて、この問題の解決は忘れるともなく、忘れていた。ところが、昨年(平成18年)の夏、下男の意の「さんすけ」と「おさん」そして「おさんどん」を加えて、語幹「さん」が共通している点から同じ意味から生まれたのではないかと気づいた。
早速身近にある辞書や語源関係の本を調べたら、「さんすけ」は、下男の通称、後に銭湯の下男を指すことぐらいの説明しかなく、一方「おさん」にはさまざまな語源説が示されていた。(1)「おさん」という人名の女が下女働きするものに多いところからか、(2) 貴族や将軍などの邸の奥に下女のいる「御三の間」があってその「御三」からか、(3) 飯を炊く、かまどを意味する「御爨(おさん)」からかなどの説が挙げられ、現在これらの説を組み合わせて語源を推定する「~からか」の語句を加えて説明するのが一般的であった。
辞書の「おさん」の見出しの漢字表記に「御三」「御爨」を掲げているものもあるが、語源を理解しての表記ではなく、「おさん」の音に応じた漢字表記(「爨」は意味を考えているが)を示したのにすぎないのである。『広辞林』(六版)では「『御爨』の意からという」という説明で、『新潮現代国語辞典』では「おさんどん」の項目のみであるが、そこでは「『御爨どん』の意か」としている。いずれも語源を確定するには至っていない。
語源未確定の事態が現在まで続いているのは、「おさん」の役割とそれを示す言葉(和語「かしく<現在「かしぐ」>、漢字「炊」「爨」など)の意味検討を歴史的に十分に行ってこなかったことに原因があると思われる。「おさん」は、貴族や将軍などに雇われ雑用をする女、とくに飯を炊き炊事する女である。「飯をたき炊事する」にあたる和語は「かしく」で、これを古字書を見ると、古代から「炊」「爨」の漢字をあてていた。この二種の漢字で、漢字の字義上、和語「かしく」に対応する漢字は「爨」であり、この漢字を使用するのが正式であったと考えられる。それで下女を雇う貴族や将軍家などでは漢語を重視して「炊事」の言葉として漢語「爨」を用いるとともに、その炊事をする者をも指すようになり、ついには「お」を付して「おさん」と丁寧に扱いもしたようである。これが次第に敬意が逓減して下女の別名として使用された。一方、同じ役割の男にも「爨」に男を表す「助」を加えて「爨助」とし、最初は女の場合と同じく炊事用の水汲み、その薪割りの仕事などに従事した者とみられる。かくして男女ともに対応した語、「お爨(おさん)」「爨助(さんすけ)」を作り上げて体系ができたのである。
以上一例をあげたが、語源を考える場合には、歴史として考えるのであるから、(1) 用例を歴史的に収集し、かつ、(2) 解釈する語だけでなく、関連する語を広く収集する必要がある。これらを検討して語形、語義の最も近いもの同士を合理的に説明する方法を考えることになる。その場合 (3) 漢字・漢語の影響を常に考慮しなければならない。
2007年3月16日 掲載