吉村公宏(奈良教育大学教授)
教育大学は主に小中高の先生を育てるところですが、私はそうした教育大学で英語学と認知文法論を教えています。中高等学校の英語教育で、昔と大きく変わった点は、実用的英語力、つまり会話やコミュニケーションの力が重視されるようになった点でしょう。一方、あまり変わっていない点は英作文・英文法指導ではないかと思います。一般の人は、コミュニケーション能力と英文法の力は別の物と考えている人が多いようですが、果たしてそうでしょうか。私は「文法の中の文化」という視点からこの2つの力を支える「発想比較」の教育が、今、必要と考えています。
たとえば、英語と日本語を比べてみましょう。芭蕉の有名な俳句に「古池やかわず飛びこむ水の音」があります。英語に訳すと「かわず(=カエル)」を単数にするか、複数にするか決めなければなりません。どちらかに決めないと英語では話せないし書けないのです。日本人学生に聞きますと1匹と答えます。では、「しずかさや岩にしみ入る蝉の声」の蝉は一匹でしょうか。こちらはたくさんの蝉、と答えます。日本人にとっては問題にならないことが、英作文を体験することによってはじめて問題となって浮かび上がってきます。
一方、日本語では主語を「は」で受けるか「が」にするか、あるいは両方なしにするかを決めなければなりません。私たちはそのことを特に不自由に感じてはいませんが、日本語を学習する外国人にとっては悩みの種となります。たとえば1例。恩師夫妻を囲む同窓会の引き際、話題も尽き、誰から帰宅を言いだすか、参加者一同が固まり、沈黙した一瞬の状況。あなたは、次のどれを選びますか。「(そろそろ)私は/私が/私、失礼します。」たぶん、「私>私は>私が」の順番でしょう。中でも「私が」は最悪です。英語の単数複数ほどの強制力は無いにしても、微妙さ加減は冠詞に引けを取りません。「は」は副助詞、「が」は格助詞と憶えることも大切ですが、文化とコミュニケーションの中ではじめて文法が意味を持つことに気づくこと、これはもっと大切かも知れません。
外国語学習とは、その言語で見た世界を疑似体験することです。その中でも、文法は疑似体験を可能にしてくれる秘伝書です。文法を指導するとは、生徒を異文化体験の世界に引き込むことにほかなりません。このことを「文法の中の文化」と呼んだわけですが、この視点を持てば、文法教育はもっと楽しい分野になるのではないでしょうか。
2010年5月28日 掲載