大津由紀雄(慶應義塾大学教授)
言語学と一口に言ってもさまざまです。その中で、言語を心というシステムの一部であると捉えて研究を進めている流れがあります。代表的なものが生成文法と認知言語学です。心というシステムの一部であると言語を捉えるというのですから、当然、心を作り上げている言語以外の(下位)システムにも関心が及ぶはずです。たとえば、生成文法にとっても、認知言語学にとっても、記憶というシステムへの関心はかなり高いといえます。
こうした発想にもとづいた研究が着実に進展していくためには、それにふさわしい研究環境が必要です。なかでも、組織的支援と財政的支援は不可欠です。組織の面でいえば、欧米では、生成文法や認知言語学の研究拠点には必ずそれを取り巻く認知心理学、計算機科学、脳科学、哲学などの優れた研究者集団が存在します。そして、ことばとしては使い古されているものの、日本の現状はそれにはほど遠い、「研究領域間の垣根を取り払った」研究環境が生み出されています。たとえば、領域横断型の講演会、シンポジウム、ワークショップなどが日常的に開催されています。
さて、そのような研究環境が形成されるためには、財政的支援が必要となります。優秀な研究者を集め、活発な交流を実現するための資金です。日本でも、一部のCOEがそうした支援を得て、欧米のような研究環境を整えようとする努力を重ねています。しかし、なかなか離陸を果たせないでいるようだというのが率直な印象です。その理由の1つが言語学者の意識の低さにあるのではないかと思います。「心」とか、「認知」を研究の基礎概念に据えながら、関連諸科学の研究者と実質的な交わりをしようとしない言語学者が多すぎるのではないでしょうか。
たとえば、最近、「ワーキングメモリー(作動記憶)」を持ち出す言語学論文も少なくありませんが、そうであれば、ワーキングメモリーに関連する基本的文献くらいは原典で読んでおいて欲しいと思います。誕生してから半世紀にならんとする現代認知科学はさまざまな試行錯誤を重ねながら、つねに新たな脱皮を目指して、活発な研究活動を続けています。優れた入門書や概説書、ハンドブックや事典、それに、読本(readings)の類も容易に手に入れることができます。
言語学のよりよい研究環境を生み出すためにも生成文法や認知言語学に関心を持つ若い頭脳に大きな期待を寄せています。
2007年1月5日 掲載