すぎもとつとむ(早稲田大学名誉教授)
国際的にみて日本の児童、生徒は学力低下している。だからユトリ教育を排して旧のように充実した学習時間にもどそうという。しかし、俗に十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人といわれる。基礎さえきちんと学習しておけば、学校も教師も不要、個人の努力次第なのだ。教育とはつめこむことではなく、引き出すことだ。近代東洋薬学の祖といえる明代の李時珍(東璧)も少年のころを回顧し、「片田舎にうまれたわたしは幼児から病気がち、しかも資性魯鈍、成長してから読書に夢中になった」と記し、また漢字学者として夭折の羅振鋆は十歳になっても書を開かず母は他人にくらべて歎き悲しんだという。野口英世やエジソンをもちだす要もあるまい。わたくしは、十九歳で教壇に立ち懸車をもって大学を解任されるまで多くの子どもに接して、やはり根本は教育であることを確信した。小学生のころの恩師、大学での指導教官の学恩を考えると、道路を作るために特定財源を設定するくらいならば、それを教育にこそ設けて、教育立国を目指すべきだ。
言語学の前に、大切なのは言語教育なのだ。とりわけ動機づけが重要だと思う。吉利支丹語学を一読するとき、あるいはヘボンの辞典を開くとき、碧眼の士の日本語学習研究への崇高な精神と鋭い観察力に頭が下がる。否、江戸期の国学者の国語への研究にも教えられることが多い。おそらく宣長の『玉勝間』は青少年にとって言語学入門書となるであろう。〈かむがへといふ詞〉の項には〈考〉は比較が根本義と教える。同じ論理を駆使すれば、〈静〉も〈沈む(自動詞)・鎮める(他動詞)〉も根源は一つ、日本語シヅに落ち着く。日本語は常に形容詞と動詞を一対で混合し考察すべきなのだ。流行ルも速シも同根。ここでおそらく少年、少女たちも高度な言語学を学ぶ以前に、神秘なしかしロジカルな日本語の一面にふれられよう。
帰国子女の一人はわたくしに、形容詞が語形変化すること、しかもモノを客観的に表現するク活用と主情的表現のシク活用のあること、ロゴスとパトスの両面を認識して感激したと告白した。彼女は英語をよく学んでいた。ゲーテのいう外国語ヲシラヌ者ハ自国語モシラヌの裏返しであろうか。
十八世紀日本の生んだ偉大な言語学者、富士谷成章の言葉――天地の言霊は、理をもてしづかにたてり/名(名詞など)をもて物を理り、装(動詞・形容詞など)もて事をさだめ、挿頭(副詞など)、脚結(助詞・助動詞など)をもてことばをたすく――この一言に言語の、言語教育、言語学の神髄が喝破されている。学校の古典教育には先賢の言語研究作品も是非入れたいものである。
2008年6月9日 掲載
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