福山雅治と私としおと塩化ナトリウム

本多 啓(神戸市外国語大学教授)

 最近自分がある意味福山雅治に似ていることに気がついた本多です。こんにちは。私のことをご存知の方、そんなに怒らないでください。ま、世の中には「勘違い」という言葉もありますが、ここでそれより大事なのは「ある意味」です。どういう意味かって?

 ま、それはいいとして(←授業中の私の口癖だそうです)。

 日本語には「しお」という言葉と「塩化ナトリウム」という言葉があります。日本語には他にもたくさん言葉がありますが、とにかくこの二つの言葉もあります。

 で、この二つはだいたい同じものを指すと言っていいでしょう。厳密にはミネラルがどうたらこうたらとかいう話もあるので完全に同じとはいえないかもしれませんが、まあ、だいたい同じと言っていい。すくなくとも、「しお」が足りないときに代わりに「塩化ナトリウム」を使うのは問題ないでしょう。

 そしてこれは実際にやってみなくてもいいのですが、たとえば「ちょっとそこにある しお とって」って、理科の実験中に言ったら相手はどんな反応をするでしょうか。

 ついでに、家でご飯を食べるときに、「ちょっとそこにある 塩化ナトリウム とって」って言ってみたらどういうことになるでしょう。

 「しお」と「塩化ナトリウム」って、何がどう違うのでしょう。

 「意味は同じ。ニュアンスが違うだけ」ですか。そうですか。それでは、「ニュアンス」って何なのでしょう。まあ何となくは分かるんですけど、でもちゃんと説明しようとすると大変じゃないですか。

 「意味は同じ。文脈によって使い分けがある」ですか。それでは、「文脈」って何なのでしょう。意味が同じなのに、使い分けが出てしまうのはなぜなのでしょう。

 「意味が違う。だから文脈による使い分けがある」ですか。また「文脈」ですか。というか、具体的にどう意味が違うのでしょう。

 というか、そもそも「意味」って何なのでしょう。

 「しお」と「塩化ナトリウム」については、以前とある本に私自身の考えを書いたことがあります。でも、ここではその本の紹介はしません。ちょっと気恥ずかしいので。

 でももしかしたら、このページの下の紹介リンクに出ていたりするかもしれません♪

 授業では毎年のように喋ってるんですが。

 「なんか変な授業やってるなあ」ですか。そうですか。でも同じような話でも、coastとshoreとか、groundとlandとかをネタにしたら、たちまち立派な「意味論」の授業になってしまうのですね。だったら「しお」と「塩化ナトリウム」でも全然いいと思うんですが。

 日常の「当たり前」、というか、あまりに当たり前すぎて「当たり前だ」ということすら分からないくらいの当たり前、それが当たり前でなくなる経験というのは、けっこう大事なのではないかと思うわけです。

 ま、ヒマな人は考えてみてください。とくに何もお礼はできませんが、心から感謝したいと思います♪

 ところで皆さんは、2007年に放映された、『ガリレオ』というテレビドラマをご存知でしょうか。内容を思いっきりはしょって言うと、変な学者が、警察から変な問題の解決を頼まれて、「さっぱりわからない」と歓喜の表情を浮かべながらなぞ解きに取り組み、物理学の知識と思考力と実験を駆使して、最終的に難事件を解決する、というものです。

 「さっぱりわからない」とつぶやきながら不気味なくらいに嬉しそうな顔をする瞬間の福山雅治が、私は好きです。

 いえ別に、「変な学者が変な問題を解いて喜んでる」というところで私と福山雅治が似ているとか、そんなことが言いたいわけではありません。念のため。

 ドラマの中の福山雅治と私が似ているのは、「分からないことに苦しみ、そして苦しみながらも楽しむ」という姿勢です。分からないことがあるのは悪いことでも恥ずかしいことでもありません。それは知的探求の原動力です。

 そして分かった時の快感はもう、何とも言えません。

2010年5月14日 掲載