発話の意図の射程

久保 進(松山大学教授)

 語用論では、実際の日常の会話を十分に反映していると考えられる映画のスクリプトを会話分析の材料によく用いる。ここでは、以下の引用例を用いて、「発話の意図の射程」という問題を考えてみよう。

 引用例の会話の背景と流れは以下の通り:被告側弁護士ドノバンの事務所で研修中のハーバード・ロー・スクールの院生エレが、裁判所の水飲み場の列に並んでいたとき、原告側証人で自称被告の愛人エンリケが、列を無視して横入りする。頭に来たエレは、彼を睨みながらこれ見よがしにサンダルの先でコツコツと音をたてて抗議をしてみせる。それに対して、水を飲み終えたエンリケが、下線部の発話で反撃する。しかし、そのことが、「被告は、エンリケと男女の関係にあり、夫を疎ましく思っているから、被告には夫を殺害する動機がある」という原告側の主張を崩す糸口になるのである。

ENRIQUE: Don’t stomp your little Prada sandals at me, Miss Thing.

He walks past, as Elle gapes at him. Realizing.
Elle grabs Emmett’s arm as he whispers with Donovan.

ELLE: He’s gay! Enrique is gay!
(Karen McCullah Lutz and Kirsten Smith, Legally Blonde)(underline mine)

エンリケ: 僕に向けてかわいいプラダのサンダルでコツコツと音を
      立てるんじゃないよ、お嬢ちゃん。

エンリケは、エレが彼をぽかんと眺めている中を通りすぎる。
エレは気がつく。エレは、エメットがドノバンと小声で話している最中に、彼の腕を掴む。

エレ: 彼はゲイよ!エンリケはゲイだわ!
(カレン・マックラー・ラッツ+キルストン・スミス『キューティー・ブロンド』)(下線引用者)

 そもそも、下線部の発話は、エンリケにとっては、全身ピンク色のブランドもので着飾ったバブリーなエレに対する嫌み以上のものではなかったが、ファッション販売促進学を大学で専攻したエレにとっては、彼の発話は、それが字義的に意味する以上のことを意味する。すなわち、エレは、「女性向けブランド商品に熟知している男性はホモである」という知識に基づき、「エンリケはプラダのサンダルのことを知っているからホモであり、そうである以上、彼は被告の愛人ではあり得ない」という推理をし、上の原告側の主張が成り立たないことに気づくのである。このようなエレの推理とそれが導く裁判への波及効果などは、発話時のエンリケには思いもよらなかったことであろう。

 これらのことは、私たちに、「一つの発話の遂行において、発話者の意図には射程があり、その射程を越えると、その発話の解釈は、発話者の手を離れ、解釈者に委ねられる」ということ教えてくれる。ただし、そこで得られる解釈は、その発話が発せられる発話のコンテクストが属する一定の社会的文化的背景やそれに関する解釈者の知識とその知識に照らして発話を考察する解釈者の能力に依存していることは言うまでもない。発話の意図は凧の糸に通じるところがありそうだ。切れたら(=射程を越えたら)何処に行くか(=どう解釈されるか)元の持ち主にはわからない!

2010年7月23日 掲載