竹沢幸一(筑波大学教授)
私の専門は理論言語学で、その中でも生成文法という理論に基づいて主に日本語の研究をしていますが、私にとって生成文法の研究をしていて一番楽しいと思うのが「内省」という作業です。一般に、内省とは自らの心の内的状態を自らが観察し、報告することを指しますが、言語研究の場合、さまざまな言語表現の容認可能性(「いい文」と「ダメな文」の区別)や意味解釈に関して、母語話者として持っている直観をもとにして話者自身が判断することを言い、この理論の中心的な方法論となっています。
ここでは、「山田さんは大声で叱るには気が弱すぎる」という曖昧文を取り上げて、内省について考えてみます。この文についてこれまで意識的に考えたことのある人はまずいないと思います。授業で学生にこの文の意味について尋ねてみると、最初は半数以上の人が曖昧性に気づきません。しかし、この文が曖昧であることを伝え、ヒントを出していくうちに、ほとんどの学生が二つの解釈に気がつきます。最後まで分からない学生でも、「「山田さん」は「大声で叱る人」とも「大声で叱られる人」ともとることができますね」と解説すると、「ああ、そうだ」と気づいてくれます。この「気づき」の感覚がまさに内省の面白いところです。以前この文について誰かから教わったわけでもないのに、曖昧性をすでに知っていたかのように気づくわけです。つまり、これまで微塵も意識したことがなかった潜在的知識が内省によって目を覚まし、意識化されることの面白さです。しかも、それは一人だけではありません。日本語母語話者であれば、この文に対して誰もが同じようにその気づきの感覚を共有します。そうしたことを考え合わせてみると、「母語の知識って本当に不思議なものだ」という実感が心の底から湧いてきます。そして、さらにそこから母語に対するこうした気づきの感覚はいったいどこから生じてくるものなのかという、言語知識の起源に関する非常に深い問題が生まれてきます。
内省とは「心の中での実験」であると言った著名な言語学者がいます。つまり、その実験とは、母語話者が心(=頭)という実験室の中で単語という名の薬品をいろいろと混ぜ合わせ、文という化合物を作るということです。その混ぜ合わせ方でいい文もできれば、ダメな文もできる、解釈がひとつに決まる文もできれば、曖昧な文もできる??そうした実験を繰り返しながら、どうしたらいい文ができあがるのか、どうしたら曖昧文となるのか、その無意識のプロセスを探りながら、私たちの心の中にあると考えられる母語の知識を解明していこうということです。この実験には特別な実験室も実験器具も要りません。必要なのは(母語の知識が詰まった)私たちの頭だけで、いつでもどこでも誰でもできる、まったくお金のかからない実験です。また幸いなことに、変な調合の仕方をしても、化学実験と違って爆発の心配はありません。(ただ、最新理論では「クラッシュ」することはあるようですが。)
言語学者が普段行っているこうした内省実験を分かりやすく工夫して、最近はやりの脳トレのゲーム・ソフトのひとつに加えたら結構売れるのではないかと思ったりもしているのですが、少なくともこうした内省実験が中高の国語の文法教材に加わったら、生徒たちも「この文の主語はどれか?」とか「この単語の品詞は何か?」といった退屈な問題を考えるより、ずっと楽しく、また母語そして言語一般に対してもっと興味を持って考えることができるようになるのはないでしょうか。
2009年10月23日 掲載