千葉修司(津田塾大学教授)
文法とは何かという問いに対して、それは、私たちの心の中のさまざまな思いをことばにして表わそうとするときに用いる重要な道具であると答えることができます。世の中には、その道具を用いなくてもことばが使える人がいたり、用いないとことばが使えない人がいる、というようなことではなく、人間誰でも、この文法という道具を用いないと、ことばでのやり取りができないと言っていいくらい、人間にとって不可欠なものなのです。
たしかに、母語の場合には、ふだん、文法のことを意識しなくても、ことばが使えているように見えますが、これは、人間の脳がひとりでに文法を活用して、私たちの言いたいことを、その場その場にふさわしい適当な言語表現に作り替えてくれるので、私たちには、まるで文法の力をいっさい借りていないように見えるだけなのです。いっぽう、外国語の場合には、みなさんご存じの通り、かなりの程度、文法を意識しながらことばを使うことが多いというのが事実です。このように考えると、結局、母語であろうと外国語であろうと、ことばを駆使できるということは,すなわち、それぞれのことばに対応する文法を、脳の一部として身につけているということに他ならないことになります。逆の見方をすると、私たちの体から文法という道具を取り去ってしまうと,ことばが自由に使えないという状態が発生することになります。 それなら、ロボットの頭脳に文法をカセットのようにして,ガチャッとはめ込んでやれば、ロボットは、その文法に対応することばが使えたり、理解できたりするようになるのかという質問を受けることになりますが、そのように考えて、おおむね、差し支えないと思います。ただし、人間の場合には、「カセットをガッチャッ」と外から取り入れる方式で文法が習得されるのではなく、むしろ、内側で文法がおのずと醸成されるという形になります。ありがたいことに、生まれたときからすでに、脳の一部として、いわば、文法の素なるものが与えられていますので、これに、必要なだけの量の言語データを、必要なだけの期間、追加的に与えてやれば、誰でも、いつの間にか、自分の母語に対応する文法が自然に固まっていく仕組みになっているということが知られています。ただし、外国語の文法の場合には、母語の文法の習得の仕組みとどう違うのかが、今のところ、十分わかっていません。
2006年11月17日 掲載