応用言語学に行きついたわけ

名柄 迪(ミシガン大学極東言語文学科名誉教授)

 私は、1945年8月6日に、原子爆弾のきのこ雲が私の眼の前で爆発するまでは、B29が落とす爆弾が当たらないように、逃げ回り、神社仏閣に参った時には、日本が勝ちますようにと祈る、日和った根性の、節操のない、臆病な中学生でした。

 その後、広島原爆のショックを受けたまま、8月9日に長崎の原爆、そしてソ連参戦、そして15日の敗戦の詔勅と、衝撃が続いたあと、歴史上、初めての敗戦のドサクサに、一体自分は、命が助かったことを、喜んでいるのか、申し訳なく思っているのかも、分からない日日をすごしていました。私の虚脱状態がいつまでも続くのを見かねて、父が「私は、神様ではないから、お前の将来に、役に立つ助言は出来ないが、日本は英語国に負けたのだから、お父さんが、金を出してやるから、一応、YMCAの英語講座に行って英語の勉強だけはして、そこから、自分の進路を考えたらどうか。」と言ってくれました。

 そこから、「象は鼻が長い」の著者の三上章先生の母校である広島高等師範学校付属中・高校の英語の教師になり、京都女子大の英語教授法担当の専任講師に任命されるところまでは、直線距離を進みました。

 当時の英語教育は、構造主義言語学全盛の時代でした。音韻論と統語論はまあまあとしても、意味論に触れることは、まるで、タブーだった構造主義言語学に飽き足らなかったので、Chomskyの指導教官だったZelig Harrisの‘String Analysis’ もNoam Chomsky の‘Syntactic Structures’ も丸善の棚に並ぶと、躊躇せずに購入しました。

 ハワイ大学に設置された東西文化交流センターの一期生として寺村秀夫先生と一緒に机を並べて学習することになった時には、その‘Syntactic Structures’ が言語学概論の教科書になりました。「言語学が Formalism からMentalisticの方に変わってくるかな」とも思いましたが、三上先生や寺村先生たちのように言語学理論の追求には興味が持てず、一生、「この研究が、実地に何の役に立つのかな。」という興味を満足させてくれる応用言語学の分野だけに、業績を絞って研究してきました。そうゆう点で、私の戦後はまだ終わっていません。

 1961-62年ごろのハワイで一番面白いと思ったのは、広島出身の一世・二世の親類縁者たちが、まだ記憶していたPlantation Pidgin Englishで、日本語でも、英語でもない、その表現の魅力に憑かれて、ウイスコンンシン大学の博士論文では、その分析をやり、その続きで、アンアーバーのミシガン大学と東京の上智大学で、日本語教師・英語教師養成と対照言語学というふうに一生応用言語学者で、やってきたというわけです。

2007年2月2日 掲載