和田尚明(筑波大学准教授)
高校時代、同じクラスに、ともに大阪外大(現大阪大学外国語学部)を目指す友人がいた。2人とも通っていた高校の教育方針が肌に合わず、周りからも浮いていたが、私と違って彼は、英語において一目置かれていた。当時の私は英語を、漠然と大学で専攻したいという程度にしか思っていなかったが(英語学などといった具体的な学問を想定していなかったのは言うまでもない)、その彼は私より英語ができたのは当然として、英文法を実にきちんと分析的に捉えていた節があり、休み時間に彼の「ルール」なるものをよく「解説」してくれた。それがきっかけだったのだろうか、それ以後何となく英語という言語の文法体系はどうなっているのだろうという疑問が自分の中で徐々に育っていったように思う。
学校にそぐわない2人だったから、当然のように一浪した。その後、なぜか彼は法学部に進み、私は筑波大学に入り、英語学を専攻することになった。卒業論文では英語の時制システムをテーマにしたが、そのきっかけは、1年次の授業で取り上げられたテキストに出てきたライヘンバッハ時制理論であった。例の友人がきっかけで、特に日本語と違った振る舞いをする英語の文法現象を意識するようになっていた私が気になっていたことの1つに、中学生で習った「英語の現在完了形は、過去のことを表すのにも関わらず、過去を表す言葉と共起できない(例えば、John has arrived yesterdayとは言えない)」という点があったが、その理論はそのことをうまく説明しているだけでなく、他の時制現象も統一的に説明できるということを知り、小さな衝撃を受けた。大雑把に言えば、現在完了形も過去形もともに出来事は過去に生じるが、現在完了形は焦点が現在にあるので過去を表す言葉と共起できないが、過去形は焦点が過去にあるので共起できる、という説明になる。子供のころから(時間を自由に操れる)SFが大好きで、中高時代には時間論に関する新書などを結構読んでいたし、時間のマジックを扱ったり、フラッシュバック方式をとる小説や映画が好きだった私の興味に合致する文法分野を見つけられたことが嬉しかったのだろう。その後、このテーマで卒業論文を書くことになり、時制分野を得意とされる先生のご指導を受けることになったが、この時もまた小さな衝撃を受けた。自分が心酔していたライヘンバッハ理論を批判され、独自の理論を展開されていたからである。その時、「批判し構築する」という学問のおもしろみを初めて実感したのかもしれない。大学院進学後は数多くの時制理論に触れ、どれもが批判の対象を免れ得ないことを知った。ならば、いっそのことと、自分の枠組みを追い求めてきた結果、今に至っているように思う。要は、同じ批判にさらされ、防御するなら、自分で作ったもののほうがいい、ということだったのだろう。
大学教員としてのキャリアをスタートさせてすぐのころ、例の高校時代の友人と飲む機会があった。ちょうどそのころは、私は博士論文を構想していた時期で、その席上彼に様々な英語の時制現象の不思議を「解説」していると、「お前が言語学者、特に英語学者になるとは思わなかった」と彼は言った。それは自分でも思っていたことだったし、そのきっかけを作った本人が目の前にいたので、思わず笑ってしまったのを今でも覚えている。多くの方が、言語学など自分とは接点がないと思っていらっしゃるかもしれない。しかし、自分の興味あるトピックが、ある日偶然、言語の文法現象と結びついたりするから、おもしろい。ましてや、それが人生を変えてしまう可能性もあるのだから、不思議な学問である。
2010年1月22日 掲載