分詞構文から見える法則を探って

早瀬尚子(大阪大学准教授)

 「テレビを見ながら勉強する」という「ながら勉強」は、良くないと言われます。とはいえ、「勉強しながらテレビを見ている」よりも、まだましなような気がします。なぜでしょう。

 私が分詞構文やナガラ節を調べ始めたのは、こんな素朴な疑問がきっかけでした。分詞構文もナガラ節も、2つの事態を1つにまとめるコンパクトな表現ですが、どちらの事態を主節で表現するべきなのでしょうか。

 データを調べていくうちに明らかになったのは、「目立つ事態を主節に、背景となる事態を{分詞・ナガラ}節に配置する」という原則でした。例えば、(1a)に対し(1b)は少し奇妙に感じられます。しかし(2)のように「何度も振り返った」とすれば、この配置も自然です。

(1) a. サザンを歌いながら、私の方をちらっと見た。
   b. ?私の方をちらっと見ながら、サザンを歌った。

(2) 私の方を何度も見ながら、サザンを歌った。

この違いは、「ちらっと」だと時間幅の短い一瞬の事態、「何度も」だと繰り返しによる時間幅の長い事態と解釈されることに起因します。つまり、時間幅の長い事態がナガラ節に好まれることになります。

 これはちょうど、知覚心理学が言う「図と地の分化」に合致するな、と気がつきました。私たちがものを見るとき、図は形あるものと認識され、それ以外は地として、図の背後に広がっているように認知されます。つまり、地は図よりも大きく幅広い傾向をもちます。この幅を事態の時間幅におきかえると、(1a)や(2)のように、相対的に時間幅をもつ事態が地として{ナガラ・分詞}節に配置されるのが自然で、 その逆の配置である(1b)ではうまくいかなくなります。つまり、一般的な知覚の法則である「図と地の分化」が言語現象にも現れているのです。

 また、次の分詞構文は「分詞節の主語が主節の主語と一致していない」という理由で「良くない英語」だとされています。

(3) Entering the monastery, the ticket office is on the left.

けれど、この「良くない」タイプの表現は、実際には意外にも使われ続けています。なぜだろうと思ってコーパスの事例を検索し、検討してみると、この「良くない分詞構文」に共通する特徴が見えてきました。簡単に言うと、「良くない分詞節」の主語は(典型的には)話者であり、主節はその話者に見えている内容だ>ということです。(3)の意味は「(話者が)修道院に入ったら、チケット売り場が左手にある(のが話者に見える)」、つまり、話者の目前で展開する状況を、その現場で見えたままに描写する、体験没入型の表現だ、とわかったのです。「良くない分詞構文」にも、ある限定された状況描写を行うという存在意義があり、だからこそ非難にもかかわらず使われ続けているのです。

 このように、昔から何気なく疑問を感じていたことに、説明や理由づけが与えられるのが、言語研究の醍醐味です。多くの用例に当たり、仮説を探り当て、その正しさの実感を強めていく時のわくわくする気持ちは、昔も今も変わりません。言語表現を司る一般性を、誰もが実感できるレベルで探っていくことを、これからも地道に続けていきたいと考えています。

2009年12月18日 掲載