井上和子(神田外語大学名誉教授)
私たちは、いつの間にか母語である日本語を体得している。教えられたり、訓練されたりして覚えるのではなく、無意識のうちに自分のものにした母語を自由に駆使して、常に身辺におこる新しい経験について語り、あるいは理解することが出来る。そのため、母語について意識するのは、正しくない用法を指摘された時であり、いわゆる「ことばのみだれ」は一般の関心の的になる。「ことばのみだれ」として取り上げられる現象も種々雑多であるが、掘り下げて考えれば、「ことば」ならではの面白さに気づかせられるものが少なくない。
他方、ことばの出始める1歳を過ぎたころから3歳くらいまでの幼児が使う「ことば」の中に、間違った用法として見過ごすことができないものが多い。次の例は私の身近で起こったことである。2歳を少しすぎたある女児が「我慢できない」の代わりに「我慢しられない」、「一人でお片付けできない」の代わりに「一人でお片付けしられない」などと言っていた。数年前に、「起きられない」にたいして「起きれない」、「寝られない」に「寝れない」という「ら」抜き表現が巷で議論に上っていたが、この子供は「我慢し」+「られ」+「ない」と規則に従って有意味な要素を組み立てているのである。このように子供から自然に出てきた表現に「ことば」の仕組みについての鋭い感覚が現われているのに気づいた時に、「ことば」の面白さを実感する。
小学校3,4年頃からは、「ことば」について考えさせると、彼らも新鮮な感動を覚えるようである。例えば、「赤い帽子を被った赤ん坊を抱いている女の人」で、「赤い帽子を被っているのは誰」と聞くと、たいてい「赤ん坊」と応えるが、「女の人」でもありうることに気づく。これは、隣り合った要素が結びついて一つのまとまりを作ることができ、他方、離れた要素も結びつく可能性があることも意識するのである。「帽子を被っているのが赤ん坊」という解釈の文はさらに、[[[[赤い帽子を被っている]赤ん坊]を抱いている女の人]と話している紳士]のカッコつきで示したように展開できる。これにより要素を繰り返し組み合わせることが出来、これらが層をなした構造を作ることに気づく。そして、このような仕組みを積極的に試そうという意欲が出てくる。このように我々が生まれながらに体得している「ことば」の仕組みとそれを駆使する能力を解明しようとするところに「ことば」の研究の面白さがある。
2006年7月14日 掲載