児玉徳美(立命館大学名誉教授)
人はことばを用いて考え、考えながらことばを組み立てていく。またことばを介して他者との関係を築き、他者の同意や納得を得るために自分の考えや意図をできるだけ効果的に伝えようとする。どのようにことばを用いるかは個人や社会によって異なる。
古代ギリシァではことばはロゴス(logos)であり、ロゴスは論理であった。ロゴスのあり方が真理のあり方であり、ロゴスは暗闇を照らす光であった。ことばと論理を不可分とする言語観はキリスト教に継承されていった。聖書のヨハネ伝はその冒頭で「はじめにことばあり、ことばは神とともにあり、ことばは神なりき」と述べている。ロゴスにはことば・論理・真理が一体のものとして存在している。現代英語のlogo(ロゴ)やlogic(論理)にもその名残がうかがえる。
このロゴス観と対照的に、日本ではことばが必ずしも論理や真理と結びついていない。仏教では真理へ近づくために、ことばを超越し、沈黙へと高められる世界さえつくってきた。ことばへの信頼が薄く、しばしばことばによる説明より以心伝心、能弁より寡黙が尊重される。このような言語意識が日本の言説の特徴ともいえる「あいまいさ」を支え、「21世紀の世界を解く鍵はあいまいにある」とか「論理には多くの抜け道がある」などの発言を生んでいる。言説の「あいまいさ」は因果関係や責任の所在までもあいまいにする。
言語への不信は日本に限らない。ニーチェが19世紀に「神は死んだ」と述べて久しい。これは神とともにことばへの不信であり、従来「真実」とみられていたものへの疑問でもある。その後、20世紀の戦争の蛮行やそれを弁護する政治の虚偽、さらには今日の映像メディアの隆盛の中で、ことばはますますその活力や正確さを失いつつある。人間と動物を区別する標識ともいえる言語への不信は人間の堕落をも示唆している。同じ状況にありながらも、ロゴス観と日本の言語意識の間には基本的な違いもみられる。前者が言語への不信から言語の再構築を探っているのに対して、後者は言語への不信から言語を超えた世界に真実を求めようとしている。確かに完全無欠な論理は存在しないし、ことばや論理には人間のもつ知力の限界や独善性の性向が含まれている。しかしこの限界や独善性を見極めるには、残念ながらことばを介する以外に方法がない。
ことばの力を高めるためには、四文字熟語や問題な日本語、あるいは外国語などの表現方法を身につけることも大事である。しかし社会においてより重要なことは表現内容である。ことばは人を鼓舞することもあれば、人を抑圧しだますこともある。社会の現象や出来事を語るには、言語表現に埋め込まれている問題意識・価値観・説明力・分析力こそが重要である。あいまいな思考・矛盾した論理・無責任な主張が言語表現にみられる場合、それはことばの罪ではなく、ことばを用いる個人や社会のせいである。ことばの本来の役割が十全にはたされているか否かを絶えず確認する必要がある。
2006年12月15日 掲載