【連載: 「ことだま」というもの】6. 結語

安井稔(東北大学名誉教授)

 太古、「ことだま」に対する人々の態度は、大らかなものであったと思われる。不吉なことと結びつきそうな縁起の悪いことばの使用はできるだけこれを避け、幸運をもたらすかにみえる縁起のよいことばには、願いを込めてこれを用いる、というふうであったと考えて差し支えないであろう。

 大らかであったというのは、「ことだま」という現象が、白日の下に引き出され、検証を受けるというような目にあうことはなかった、ということでもある。

 ことばが吉凶と結びついていることは、実際にあるのか。あるとしても、それは、偶然によるものであるのか。「神風よ、吹け」といっても神風が吹かなかった、という例はみんなが知っている。が、「ことだま」という語は、廃語とはならずに、現在に至るまで生き続けている。そこに、説明し尽くされていない何かが残っているのではないか。

 そういうところへもってきて、20世紀後半という、文明開化の御時世に、認可(PC)表現ということば狩りが始まったのであった。比べてみると、太古の人々の「ことだま」が、いかにみずみずしく、いじらしく、清純で、まっとうな人間らしくさえみえることか。ことばの消滅は、それと結びついている文化の消滅を意味する、という点は、議論の進め方如何にかかわらず、疑いの余地がない。PC表現にたずさわる関係者の節度ある判断が望まれる所以である。

 脳科学におけるミラー細胞の発見は、21世紀に入ってからのものである。これによって、われわれの心がことばによって影響を受ける仕組みが、かなりの程度まで明らかになったといってよいであろう。

 それは、同時に、「ことだま」現象が我々の心のありようと一定のかかわりを持つということ、しかも、そのかかわりあい方は、ゼロではないが決定的でもない、ということに対する説明にもなっているように思われる。ことばの使用が心に及ぼす影響ということであれば、PC表現も例外ではない。

 ただ、PC表現は、結果的には、一種のことば狩りであるのだから、その限界と弊害について、もっと注意が払われてしかるべきである。特に留意すべきは、ことばと、それによって指し示されるものとの結びつきは、単なる約束であるにすぎず、問題となっている指示物の名前を言い換えてみても、指示物自体にはなんの変わりもなく、したがって、少しも事態の根本的解決にはなっていない、ということである。言論の自由の侵害とか、文化の破壊というようなことになると、たとい、PC表現に多少のプラス面のあることを認めるとしても、そのマイナス面のほうがずっと大きいことになるのではないか。

2008年1月18日 掲載