【連載: 「ことだま」というもの】4. ことだまの力について

安井稔(東北大学名誉教授)

 ことだまに関する以上の記述に、誤りがあるとは思わない。が、不十分なところが二つある。一つは、認可表現に関するものであり、もう一つはことだまに関するものである。いずれの場合も、生身の人間がからんでいるという点が、特徴的である。

 認可表現について、言語学の教えるところによれば、ことばと、それによって指し示されるものとの関係は、恣意的なものであり、バラの花は他のどんな名前で呼んでも、同じように芳香を放つ旨を上で述べた。それに違いはないが、やっと開花に成功した新種のバラを「スカンク」という名前で売り出したとしてみよう。売れ行きは、おそらくあまりかんばしくないであろう。どうしてか。

 言語記号とそれによって指し示されるものとの関係が、言語学の教えるとおりであるにしても、言語記号とその指示物の間には、人間、特にその心や記憶を含む脳の働きが介在している。言語記号とその指示物との関係が、恣意的であるからといって、それでおしまい、というわけにはゆかないのである。どうするか。

 ある言語記号の使用が、多くの人々に不快感を与えたり、嫌悪の情をもよおさせたりするという事実があるとしたら、その言語記号の使用は、できるだけ差し控えるというのが、社会の作法であるということになるであろう。

 そういう語の中には、様々なタブー表現、相手の心を傷つける侮蔑語、さらには、性差別がからむ認可表現の問題も、当然含まれることになる。

 注意すべきは、この場合、不快感、侮蔑感、差別感などは、言語表現自体の中にあるのではないという点である。それらが存在するのは、当事者たちの心の中においてである。

 したがって、その判定には、当然、個人的な差が認められるはずである。そういう中にあって、特定の語の使用に関し、その是非を一方的に論ずることに、どれだけの意義が認められるというのであろうか。

 特定の表現が、いわば禁句となり、代わりに別の認可表現が用いられるとなると、期待どおりにことが運ぶなら、不快な表現が一つ減ることになる。が、それは、同時に、我々の文化遺産が間違いなく、一つ減ることを意味する。

 すると、不快な表現が、一つ減るというプラスの面と、文化遺産が一つ消失するというマイナス面とのかね合いが問題となってくる。文化遺産の消失ということは、禁句表現の指定に伴って必ず生ずるものであるから、問題は不快表現が持つと考えられている不快さの度合いに関する認定ということにかかってくる。その不快さが、我々の生活空間の中において堪えられないほどのものであるか、ということである。

 堪えられないというほどのものでないのなら、その使用度数ということも考慮されるべきであるということはあるにしても、より寛大で、ゆるやかな扱いが望まれる、ということになるのではないか。

 実際問題として、認可表現と非認可表現との境界線をどこに引くか、ということが重大な問題となるであろう。究極的にそれを決めるのは、「みんなの意見」ということにならざるをえないであろう。それは、日本国民全体の「民度」あういは「文化の熟成度」によって決まるということである。情けない決まり方に落ち着くというのであれば、我々自身が情けない状態にあるということである。だれを怨むわけにもゆかない。

2007年8月3日 掲載