「隙間のある言語、隙間のない言語」

岩本遠億(神田外語大学準教授)

 英語を読んでいて、単語の意味は全部分かるのに文の意味が掴みきれないということを経験したことはないだろうか。例えば、次の文の意味を考えてみよう。

(1) There was dog all over the street.

ここに出てくる単語はすべて中学校で学習するものである。しかし、この文の意味を即座に答えることができる人は、英語上級学習者の中にも多くはない。いや、ほとんどいないのが現状だろう。大抵の人が、「There were dogs all over the streetの間違いじゃないですか」と反応する。

 一方、英語のネイティヴ話者なら、ちょっと顔をしかめるが、これが文法的に間違っているとは言わない。何故顔をしかめるのか?それは、これがグロテスクな意味を持つ文だからである。「犬の肉が道を覆っていた。」ホラー映画にでも出てきそうな状況である。しかし、一体、「肉」という意味はどこから出てくるのだろうか?また、次の文も、研究者の間では有名な文であるが、一般の日本人には、意味がストレートには入ってこないだろう。

(2) The ham sandwich in the corner wants another cup of coffee.

この文の意味は、「部屋の隅でハムサンドを食べている客がコーヒーの御代わりが欲しいと言っている」というものである。ここでも「(ハムサンドを)食べている客」という意味を表す言葉は文の中に含まれていない。

 (1) の文にも (2) の文にも、英文法を学んだり単語を覚えただけでは、日本人の英語学習者には埋めることのできない「隙間」がある。英語のネイティヴ話者は、このような「隙間」を無意識の内に埋め、整合的な解釈をこれらの文に与えている。しかし、何故、彼らにできることが、我々にはできないのだろうか。

 日本語は、「省略が多くて分かりにくい言語だ」と言われることがある。「日本語は主語を省略する。そのために論理性に欠ける」などと日本語そのものに対する批判を聞くこともある。しかし、待って欲しい。日本語では、「肉」を省略したり、「食べている客」を省略することはない。英語も十分に「省略」があって分かりにくい言語なのである。

 問題は、どこに「隙間」があるのか、その「隙間」をどのような心的操作で埋めるのかという点に関して両者が違うというところにあるのである。

2007年8月17日 掲載