「語の文法」

由本陽子(大阪大学教授)

 私が長年飽きもせずに取り組んでいるのは、「語の文法」です。といっても多くの人にはピンと来ないでしょう。単語は、辞書に記載されているもので、語学学習では暗記の対象にすぎないと考えられているでしょうし、単語に文法が関わるとしても、せいぜい、動詞の活用か名詞や形容詞の語形変化くらいだと思われるでしょう。確かに、語の構造は、(1)のように長く複雑に見える語でも、二つの形態素の結合が繰り返されそれが階層を成しているだけで、文レヴェルのような複雑な文法はありません。しかし、(1)のような辞書に載っていない語でも、たいていの母語話者はその意味を正しく理解できるのは一体なぜでしょうか。
図

 それは、(1)に示したような語の構造を導く原理、そして、それを構成する各要素の意味と文法的性質に関する知識をもとに、構造に従って意味を計算する規則を知っているからです。このような原理、規則を明らかにするのが「語の文法」です。興味深いことに、その中には文の文法と並行して考えられるものもあることが知られています。たとえば、文において動詞の意味を完結する補部を表わさなければ適格な文とはなりませんが、同様の原理が語のレヴェルにもあると考えられます。具体例で言えば、(2)の括弧内の要素、putなら目的語と場所前置詞句、handなら手渡す物と人とを表さない文は認められませんが、(3)(4)のように動詞に-ingをつけてこれを名詞化した場合も同じです。つまり、動詞と同様、出来事名詞の[動詞+ing]は、その補部を(3)の括弧内のような形で表さねばならない性質があるので、複数の補部をとる場合にはこれを複合語で表わそうとしても、うまくゆきません。なぜなら、語構造は二股の枝分かれに限られていて複合語内には補部を表わす位置が一つしかないからです。

(2) a. He put *(lyrics) *(to music).
    b. She handed (them) (the toys).
(3) a. Putting *(of lyrics) *(to music) (曲に歌詞をつけること)
    b. Handing *(of toys) *(to babies) (赤ん坊におもちゃを渡すこと)
(4) a. *lyric-putting (to music)
    b. *toy-handing (to babies)

(4)でさらに注目すべきなのは、もう一つの補部を括弧内のように語の外に表わしても容認性が変わらないことです。この事実は、文レヴェルと同じ原理が語のレヴェルにも成立しているというだけでなく、この原理の適用に関して語の内と外の間に仕切りがあることを示しているのです。ところが、日本語では、語の一部であるはずの要素が語の外でその機能を発揮する場合があります。

(5) a. 健はしゃべりすぎた。
    b. 健は速くしゃべりすぎた。

複合動詞「しゃべり-すぎる」は、普通は口数が多いことを意味しますが、(5b)のように「速く」といった副詞と共起すると、「すぎる」が表わす過剰の意味はその副詞にかかるようになってしまいます。つまり、(5a, b) の「しゃべり-すぎる」は同じ一つの複合動詞ではありますが、ある条件のもとでは、解釈上は「すぎる」が左側の動詞から離れて文中の他の要素に結びつくことがあるのです。

 このように、語のレヴェルにも様々な原理や規則が働いて、新しい語が作られ、また解釈が決定されています。そして、一口に「語」といっても一枚岩ではなく、複数の言語での様々な語形成を比較することによって、「語の文法」はさらに興味深い様相を呈してきます。それが必ずしも形に現われないことがまた、私の好奇心をかきたてるのです。

2008年12月5日 掲載