石黒 圭(一橋大学准教授)
最近、大学時代の友人と話をしていて、おもしろいことに気づきました。その友人は理科系の研究者なのですが、彼曰く、「自分は頭の回転が遅いので、頭のなかのハードディスクに計算結果を蓄えることで、そのハンディを補っている」のだそうです。じじつ、その友人に「2の7乗は?」「221は何×何?」などと訊くと、「128」「13×17」と、たちどころに答えが返ってきます。彼はそうした計算結果を蓄えることで、頭のなかのハードディスクへのアクセスの回数を減らし、演算速度を高める工夫をしています。
かくいう私も、頭の回転が遅い1人です。その場で話を紡ぐのが苦手で、留守番電話を相手にいつも苦労します。では、どうやって頭の回転の遅さを補っているのかというと、ストーリーによる記憶です。頭のなかに話の流れを作っておき、それをあとで取り出すのです。記憶力自体はよいほうではないのですが、かつては議事録を取らなくても、議論の流れさえ頭に入れておけば、あとで残らず復元できました。その能力を、今は本や論文を書くときに使っています。
研究者といっても、みんな頭がよいわけではありません。言語学者のなかには、いくつもの言語を短期間で習得してしまう人がいますが、そうした人にしか研究ができないわけではありません。研究という営みは、苦手とする頭の使い方を、いかに他の部分で工夫してカバーするかにかかっています。優れた研究者の多くは、自分の能力の足りないところを自覚し、それを別のやり方で補う訓練を自らに課しています。
さて、私の現在の関心事なのですが、予測と接続詞です。いずれも話の流れ、いわばストーリーに関わりのあるものです。言語学というと、博識な人たちが束になって複雑な構造を記述し解明しているイメージがありますが、私の興味は、人間はなぜ、複雑な構造を有する言語を、いとも簡単に処理できるのだろうかという効率性や経済性の側面にあります。とくに、文章や談話を理解する場合、文や発話の長大な連鎖が次々に目や耳に飛びこんできます。その処理をその場で瞬時にやってのけられる背後には、あんがい単純な仕組みがあるのだろうと想像しています。そこで、そうした頭の働きを支える予測という活動と、接続詞という表現に興味を持ったわけです。
苦手なことや負担の大きいことから逃げるために頭を使う工夫をする。そんな言語学があってもよいような気がします。
2008年4月25日 掲載