林宅男(桃山学院大学教授)
最近「品格」いう言葉が注目を浴び、一時「~の品格」と題した本が続いて出版されました。品格と言えば、「文は人なり」という諺がよく使われます。これは、18世紀のフランスの博物学者(natural historian)のビュフォン(George Louis LeClerc de Buffon)が述べた言葉だそうで、一般には文章には書き手の背後にある人となりや人格的特長が表れるというような意味で使われます。この諺の「文」は、原文のLe style est l’homme meme.では、正確には、スタイル(style)すなわち「文体」のことを言っています。文体とは、比喩表現に見られるような「言葉の彩」だけでなく、語彙選択、文の構造、テキスト構成、会話の運び方等多岐に亘る言語形式を含むもので、それは、書き手や話し手の経験、使用の場、使用の分野、その人の社会的・文化的背景などによって決定されます。このことを合わせて考えると、この諺は、言語形式が伝える意味の本質の一端を表しているとも言えます。ここで言う本質とは、言語は記号(sign, symbol)であり、その意味にはその記号を使う人の様々な背景的・文脈的情報が結びついているという点です。このことをより一般化して言うと「言葉は人なり」と表現することができると思います。
言葉とそれが表すものの本質的な関係は、古代ギリシャの哲学者によって論じられ、後には近代言語学の研究によって明らかにされてきました。この点について、先ず、言葉の抽象的意味を扱う「意味論」の観点からの指摘は、19世紀の言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure)の言語分析に遡ることができます。彼は記号としての言語は、何かを表す「能記」(signifiant)と、それが表される「所記」(signifie)が結びついたものであり、前者に当たるのは音声、後者に当たるのは人がそれに対して抱く概念であると指摘しました。それは、記号としての言葉の意味は、それと対応する何か現実のものを指し示すのではなく、言葉を使う人の特定の文化や社会の都合で(「~とは~である」のように)物や事象に恣意的に「仕切り」を設けて定義づけされたものであるという主張でした(例えば、英語では riceという語で理解するものを日本語では「米」、「ごはん」、「籾」などに使い分けます)。次に言葉の使用上の意味を扱う「語用論」の観点からの指摘は、20世紀初頭の記号学者のモーリス(Charles Morris)の言語分析に遡ることができます。彼は記号が記号として機能する過程には、記号、指示物、解釈者、解釈的意味の4つの要素があり、記号とは解釈的意味の「仲介物」(mediator)であり、解釈的意味とはそれが一定の条件のもとで解釈者に与える「効果」(effect)であると指摘しました。これは、言葉の意味は、実際のコミュニケーションの場で人が何かの目的で相手に伝えようとする意図を表すというものです(例えば、英語のIt is hot. の文は「今日は暑い」、「このカレーは辛い」、或いは「部屋の温度を下げて欲しい」等場面によって異なる意味を相手に伝えます)。更に、最近の「認知言語学」の研究では、語や文の意味は、人が(脳の一般的認知機能に基づき)個々に外界をどのように認識・把握するかによって決定付けられる経験的なものであると指摘しています(例えば、我々は「鳥」と言えば、経験に基づき、「ダチョウ」よりは「こまどり」のような典型的な例からその意味を捉えます)。これは、概念の分析に人の内面的・個人的分析を取りいれた「観念的分析」であるとも言えます
言語学研究におけるこれらの指摘は、何れも、言葉の意味はそれを使う人がその中心にあることを示唆するものです。また、「言葉は人なり」の内容は、思考や理性のみでなく、知・情・意の全般について当てはまります。それは、言葉はそれを使う人のあらゆる「心」の動きに対応した特別の意味を伝え、その人の全てを相手に露にするからです。言語学とは、言葉とそれが表すものの関係がどのような仕組みになっているかを発見し読み解く、極めてエキサイティングな学問でもあります。皆さんも是非「ことばの錬金術」の科学的解明の営みにご参加ください。
2009年6月5日 掲載