田中典子(清泉女子大学教授)
もう20年くらい前、私は英国のランカスターという街に留学し、あるイギリス人の家に間借りしていた。英語で生活する毎日に疲れたとき、その家の居間にあるピアノを弾くのがよい気晴らしになった。ある日、何冊かの楽譜の中に子供の歌が載っているのを見つけ、パラパラめくっていると、馴染み深い「蝶々」の旋律が目に留まった。皆さんにもお馴染みの「チョウチョ、チョウチョ、菜の葉に止まれ・・・」という曲だ。だが、その旋律の下に書かれてある英語の歌詞を読んで、私はぎょっとした。 なんとそれは ‘tuna fish, tuna fish…’ という初まりだったのである。日本語に訳せば「まぐろー、まぐろー」という歌になる。イギリス人の子供にとってこの歌は「まぐろの歌」なのだろうか。私は早速、家主であるその楽譜の持ち主に尋ねてみた。彼女によれば、そのほかにも ‘butterfly’ のバージョンもあるということで、私はなぜかほっととした。
こんな小さな出来事を20年を経た今でもはっきりと覚えているのは、その時の衝撃がとても強かったからだ。あの旋律は「蝶々」以外の何ものでもないと思っていたのに、それは「ことば」によって私の中に創られたある種の制約に過ぎず、同じ連想を抱かない人が居てもちっとも不思議はないのだということを改めて実感した。
人がことばによってどのくらいその思考に影響を受けているかは興味深い問題である。認知言語学の発展に伴って、サピア・ウォーフの仮説も再評価されているようだが、私の専門の「語用論」の分野でも、使っている「ことば」が私たちの言語行為にどのような影響を与えているかを考えさせられることがある。
仕事で一週間ほどフロリダに行き、成田に帰ってきた時のことだった。スカイライナーへの改札を入ろうとすると、そこでカートを片付けていた係りの男性が「落ちましたよ」と言って私のボールペンを拾ってくれた。私は「あ、すみません」とそれを受け取った。その時まで英語で過ごしていたため、その日本語のやりとりが新鮮に感じられた。英語なら、多分 ‘You dropped your pen.’ ‘Oh, thank you.’ というようなやりとりになったのではないだろうか。「あなたが落とした」ではなく「(ペンが)落ちた」と言い、「ありがとう」ではなく「すみません」と表現する「日本語のものの捉え方」の中に帰ってきたのだと感じた瞬間であった。
2009年8月14日 掲載