「私が音声学を研究するようになったわけ」

城生佰太郎(筑波大学教授)

1. 小学校で、フランス語と出会った!

 私は、フランス人の神父が立てたカトリック系のミッションスクール、私立暁星学園を出た。だから、小1でフランス語の授業と出会った。いや、もっと正確に言えば小学校の受験科目にフランス語があったので、幼稚園のときからフランス人のネイティヴ・スピーカーについて、受験のためにフランス語の学習を始めたのだった。

 ここではじめて、外国語というのは日本語とは異なる発音をしているのだということを、身をもって体験させられた。幸い、私の先生はマダム・キャランドローという人で、当時はまだ数少ないフランス人教師として引っ張りだこだったので、教え方がものすごくうまかった。どううまかったのかといえば、私が苦労して少しでもフランス語っぽい発音を模倣すると、彼女は全身でそれを褒めたたえ、常に高く評価してくれるということだった。まだ学齢に達していない子供の身にとっては、この褒め殺しは利いた。単純な私は、褒められたい一心で彼女の発音に全身全霊を傾注して学習したのだった。

2. 国語の授業では、ただの一度も発音を評価されたことはなかった!

 さて、学年が進むにつれて、私は国語の授業でも自分なりに音読に力を入れた。少しでも感情が伝わるようにと、イントネーションも工夫した。もちろん、アクセントや母音、子音の発音もしっかりとやった。しかし、この努力を評価してくれた国語の先生は、ついに一人も現れなかった。

 それもそのはず、私たちの国語担当教師は九州海星学園や大阪明星学園の出身者だったので、東京のアクセントやイントネーションにはなじめなかったのだ。このため、某先生の書き取りの時間に、私は「木を配る」と書いて×をくらうという、とんでもない被害にあってしまったのである! その先生は、「キ」の部分を高く発音したので、方言学の知識を持ち合わせていなかった子供の頭では、どう考えても「気を配る」とは聞こえなかったのである。

 爾来、私は発音に対してより一層ナーバスになっていった。そうしてその結果が、今日の私である。つまりは、一種の反面教師ということになるのだろうか…。

2007年5月25日 掲載