江口泰生(岡山大学教授)
いきなり宣伝であるが、『ロシア資料による日本語研究』(和泉書院)という本を出した。江戸時代、ロシア語を鹿児島方言で翻訳した文献の研究である。鎖国時代にこれほど離れた二つの地域を結ぶ文献がどうして存在するのか、不思議に思われる方も多かろうが、事情はこうである。
18世紀初頭、暴風によって薩摩の商船が漂流、ようよう生き残ってロシアのサンクトペテルスブルグに移管された少年がロシア語を覚えた。彼は命令によりさまざまなロシア語書物を日本語に翻訳させられたが、彼は鹿児島生まれだったので、すべてがロシアの文字で書かれた江戸時代鹿児島方言となってしまった。こうしてロシア資料が誕生したわけである。更にまたその書物の中に、教科書『世界図絵』や場面別対話集『友好会話手本集』(二つは解読して鹿児島県立図書館に納めた)があり、しかもロシアの文字で鹿児島方言を表現しているために、語彙・語形・清濁・長短・母音脱落・母音交替(書いて→ケテの類)といったこともよくわかるといった、まことに世にも稀なる文献が生まれることになった。
最初の勤務地が鹿児島大学だったので、御当地の話題で授業を盛り上げたいという下心が研究動機である。筆記体ロシア語が自由に読め、現代・古典ロシア語に通じ、西洋古典の知識に溢れ、かつ鹿児島方言の達人で、日本語史にも精通しているという人物ではない私にとって、一文字一文字整理し、辞書を引き引き例文を解読し、そこに方言を当てはめ、対応する共通語を探し、こうしてできたデータからテーマに基づく用例を集め、18世紀初頭鹿児島方言の音配列や母音交替の意味などに結論を導くことは楽ではなかったが、少年はこんな鹿児島方言訳をあてたのか、この書物にはこんなことが書いてあるのか、18世紀初頭鹿児島方言にはこんな規則があったのか、という新鮮な感動ばかりで、苦しみなど一切なかったから幸せである……というのはたぶん嘘で、ロシア語も話せず、しかもひどい二日酔い状態で、ロシア科学アカデミー所員と中華料理コースを食べたあの夜も、懸命に手紙を書いて『世界図絵』や『友好会話手本集』の翻訳出版許可をもらったことも、今の年齢では考えられないことだったかもしれない。若く、一途な、情熱的な日々であったというのが正しいだろう。けれども今、私はこの世の知にいささかなりとも貢献し、苦しみなど一切なく幸せであったとつくづく安堵するのである。
2006年7月21日 掲載