私が応用言語学者になった理由

畑佐由紀子(アイオワ大学准教授)

 私はもともと英語が苦手で大学進学は受験で英語が重要でない学科を選ぶほどでした。大学に入ってからも、外国語はさけて通っていたのですが、3年生の時、1ヶ月30万旅費宿泊費込みという安いヨーロッパ一周ツアーに参加し、はじめて頭に雷を落とされたような経験をしました。ツアーだから言葉はしゃべれなくてもなどと軽く考えていたのが大きな間違いで、安いだけに到着地では自分で色々しなければどこにも行けませんでした。で、何もしゃべれない私は身ぶり手振り、地図頼りだったのですが、ツアーの仲間には流暢にしゃべれる人もいて本当にすごいと思ってしまいました。

 それから、なんとか苦手意識を克服しようと、週20時間の英語学校に通いましたが、結局片言しかしゃべれないので、思い切って渡米しました。でも、アメリカの土を踏んだとたん、今まで勉強したのはいったいなんだったのかと思うぐらい何もわからず、とにかく最初の3週間ぐらいは一言も口を開かずに過ごしました。その後、大学で授業を受けるようになって、ある日突然フレーズの区切りがわかるようになり、人の言葉が何となく固まりで理解できるようになり、でも、バーに行くと聞こえたはずの英語が全くわからなくなったりと、不思議な現象がどんどん起きてきました。また、友達の中にはあまり苦労しているようには見えないのにどんどん上手になる人もいたりして、どうして個人差があるのか不思議でなりませんでした。

 私が言語学や言語習得を本気で勉強しようと思ったのはこれがきっかけです。そう思うと、英語も単なる勉強の対象ではなくなり、言語も含めて人の関わるものには偶発的な部分とシステムがあることにも気がつくようになりました。日本語という母語のシステムを通して英語を見るとずいぶん不可解なことがたくさんあるのですが、日本語のフィルターを外して、英語という一つの言語システムとして考えると、理にかなっているわけです。また、単なる音や絵の固まりが、その言語を話す人にとっては、どうして単語や漢字として理解され、意味の固まりとして処理されるのか、その情報処理の過程がどうなっているのかに興味を持ちました。そして、日本語や英語のように違った言語でも、情報処理の仕方に共通性があるのかとか、もしあるとすれば、それは言語間に共通の規則によるものかなど、どんどん疑問がわいてきたのです。

 日本語を教えるようになってからは、アメリカ人が日本語を習得しようとするとき、どんな問題が起こるか、起こらないか、あるいはその問題の原因はとこにあるのかなどに、興味がわいてきました。例えば、アメリカ人にとって難しい文法は何かと考えると、二つの言葉が違う部分が難しいと考える人が多いようですが、必ずしもそうではありません。日本語では「おいしい」、「おいしくない」、「おいしかった」、「おいしくなかった」というように形容詞が活用しますが、英語の形容詞は活用しません。じゃあ、形容詞の活用はむずかしいかというと、そうでもありません。一方、日本語の「歩いている、話している」は英語のwalking, talking と同じ意味なのですが、「行っている」は going ではなくgone, 「死んでいる」はdying ではなくdeadという意味になります。つまり、「ている」がいつ現在進行形の意味になりいつ完了の意味になるのか区別をするのは学習者にとっては大変難しいことです。  学習者にとっての難しさの原因がどこにあるのかは、言語学、言語心理学、社会言語学、言語習得研究* を勉強することによって少しずつ見えてきます。では、実際どうなのかというと、ここでは到底書ききれないぐらい複雑です。わかっていることもたくさんありますが、まだまだ見つけなければいけない答えがたくさんあるのです。だから、アメリカに来て20年以上もたった今も、嫌いだったはずの英語の世界で、日本語と英語に毎日触れているのだと思います。

注 * 言語学とは音、文法、意味など、言語のシステムを研究する分野で、実際どう言語が使われているかは対象としません。これに対して、社会言語学とは社会の中で言語がどう使われているかを研究する学問です。言語心理学とは言語を人間がどのように理解し、また頭の中にあるアイディアをどのようなメカニズムで言葉にしていくか、その認知過程を研究する学問です。最後に言語習得研究とは人が母語や外国語をどうやって獲得していくかを研究する分野のことをさします。

2006年6月9日 掲載