安藤貞雄(広島大学名誉教授)
英語を読むためには、単語と文法と知っているだけでは不十分で、英米の文化も知らなければならない、という話をしましょう。
筆者が高校の英語教師をしていた若いころ、アイルランドの作家O’Flahertyの “A Shilling” という短編を読むことになった。この好短編には、Patsyという老人が、拾った1シリング玉につばを吐きかけてポケットにしまい込むくだりがあるが、問題になったのは、なぜ彼は拾った貨幣につばを吐きかけたのか、ということであった。そこは、原文では次のようになっている。
They watched Patsy spit on it and put it in his pocket.
その理由をめぐって、いろいろと活発な意見が出されたけれども、決定的な意見は出なかったようだった。その後間もなく、筆者は平井呈一氏の訳でDracuraという怪奇小説を読んでいたが、そのとき、はからずも次のような箇所にぶつかったのである。
「御者はツガニー人の頭(かしら)から、なにがしかの金をもらい、もらったその金に、縁起をかついで唾をパッと吐きかけ、それからどっこいしょと御者台に乗った」
これを読んだとき、筆者は、これは魔除けのまじないなんだな、ちょうど日本で塩をまいて清めるのと同じように、と早合点してしまった。このことが、たまたま、吸血鬼の住む城の中で起こった出来事だったからである。そして、次の機会に、教室ではその旨の訂正をしておいた。
ところが、それから大分たって、この結論は少し修正しなくてはならなくなった。というのは、BrewerのDictionary of Phrase and Fableという有名な辞典(現在、大修館書店から翻訳が出ている)の新版を手に入れたとき、早速この辞典の威力を試してみたところ、’Spitting for luck’ という項に、‘Spitting was a charm against enchantment among the ancient Greeks and Romans’(つばを吐くことは、古代ギリシア・ローマの人びとの間では魔法にかからないためのまじないであった)とあり、続いて、‘Countrymen spit for luck on a piece of money given to them’(田舎の人びとは、貰った硬貨に縁起をかついでつばを吐く)という記述が見えたからである。つまり、「つばを吐きかけること」は、確かに、「魔除けのまじない」である場合もあるのだが、O’Flahertyの短編や、例の怪奇小説の場合は、単に「縁起をかついで」のしぐさと見るほうが当たっていたのだ。なにしろ、いずれの場合も「硬貨」につばを吐きかけているのだし、また、そのしぐさをした主人公たちは、いずれも「田舎の人びと」なのだから。
2006年9月22日 掲載