河原俊昭(京都光華女子大学教授)
聖書にバベルの塔の物語があります。当時の人間達は高い塔を建てて神と等しくなろうと思いあがっていました。そこで、神は、塔の建設を不可能にするために、人々の話す言葉を互いに理解不可能にしました。ここでは人間の傲慢さの罰として多言語社会が生まれたと説かれています。
私は京都に住んでいます。京都弁が聞かれるこの街も、多言語化・多民族化が進んでいると感じます。英文ガイドブックを持った観光客の姿があちこちで見られます。歩いていると、ふと、横にいた二人連れが日本語でない言語を話しているのに気づきます。よく聞くと中国語だったり、韓国語だったりします。留学生や就学生なのでしょうか。あるいは国際結婚などで京都に住んでいるのでしょうか。
多言語社会化ですが、これは日本のどこでも見られる現象です。将来は、アパートの各世帯がみんな違う国籍である、ということも現実には起こりうるでしょう。さて、日本語がたどたどしい彼らにどのように接すればいいでしょうか。
日本に定住するならば、早く日本語を覚え日本社会に同化しなさい、母国の文化や言語は忘れなさい、と彼らに言うべきでしょうか。それは私達の思いあがりではないでしょうか。もちろん共通語としての日本語はある程度は覚えたほうが便利ですが、自らの文化や母語を忘れるべきではありません。
多言語・多文化であることは、社会を豊かな実り多いものにしてくれるはずです。それは社会にとって貴重な資産です。例えば、京都弁は日本語の世界を豊かにしているのです。もしも京都が東京化して、京都の人々が京都弁を捨てさり、京都の町に高層ビルが乱立したら、何か大きなものが失われたと感じる人は多いでしょう。
ある人は次のように主張するかもしれません。世界中の人が同じ言語を話せば、互いに十分にコミュニケーションをするようになり、平和な世界が訪れるだろう、と。しかし、争いが起こるのは金や地位を争うからであって、言語が異なるからではありません。
神は人類に多様な言葉を与えましたが、それは罰ではなくて、むしろ祝福だったのではないでしょうか。言葉が別々になったおかげで、豊かな文化が生まれ、文化に個性が生まれたと思います。
現在、登録外国人の数は、200万人ほどですが、この数は急速に増えています。多様な言語を話すこれらの人々の声を聞きながら、多言語社会の持つ意味を考えていくこと、それが私の研究課題です。
2006年8月18日 掲載