南 雅彦(サンフランシスコ州立大学教授)
私は大学で日本語に初めて接する学生を対象としたクラスを定期的に担当していますが、そうした日本語学習者が文法規則に関して仮説をたて検証を行なっていると考えられる事象に直面することがあります。たとえば「起き・る」「見・る」「寝・る」など一段活用の動詞(日本語文法では母音動詞)の辞書形は「る」で終わりますね。五段活用の動詞(日本語文法では子音動詞)でも「走る(hashir・u)」「取る(tor・u)」など基本系語幹の末尾に現れる子音が“r”で終わるラ行五段動詞があり、やはり辞書形が「る」で終わる動詞の存在が顕著です。だから「待ちます」とか「持ちます」など五段活用の動詞(日本語文法では子音動詞)を辞書形にしなさいという指示に対して、「待ち・る」とか「持ち・る」とする日本語学習者が必ずと言っていいほど出てきます。しかし、これは外国語学習者に限ったことではありません。たとえば、「なまける」という意味の「サボる」という言葉は“sabotage”という英語の言葉が語源ですが、「サボ」に動詞を作る接尾辞「る」をつけて合成した言葉です。さらに、レストランで外食することを「ファミ・る」(ファミリー・レストランから)とか「ガス・る」(「ガスト」というレスランの名前から)という若者ことば・造語があります。ただ、これらは、すべて五段動詞であって、一段動詞でないのは活用してみるとすぐにわかります。しかし、こうした若者ことば・造語から考えると、日本語学習者の「待ち・る」や「持ち・る」だってなかなかの誤用だと考えられます。
テレビドラマで、各回が「離脱る」「壊死る」「絞殺る」「夢想る」「予知る」「霊視る」「落下る」「操縦る」などと、すべて動詞が「る」で終わる章だてになっているものがあります。これらをどのように読むのか一瞬迷ってしまうのですが、それぞれ「ぬける」「くさる」「しめる」「ゆめみる」「しる」「みえる」「おちる」「あやつる」と読み、きわめて通常通りです。それにもかかわらず、「る」で統一していることから、新たな造語だという印象を受けてしまうわけです。雑誌を読んでいても、「選挙る」「コピペる」「事故る」などといった表現を目にします。「赤る(せき・る)」に至っては、「携帯メルアドを赤外線通信すること」らしいのですが、その行為自体がわかりません。いずれにせよ、若者ことばや流行語などの造語の大半は、辞書形が「る」となる五段活用の動詞です。 外国語学習者の日本語でも若者ことばでも、単純化という方向性では一致しており、それが新しい造語の動詞が「る」で終わる、つまりラ行五段動詞をベースとした類推的拡張という現象に見られるのではないかと考えられます。 言い換えれば、どのような話者にとってもラ行五段動詞がプロトタイプ(prototype:原型)になっているわけです。つまり、日本語の動詞らしい動詞なのです。たとえば、マクドナルドに行くことを関西以外では「マクる」、関西地方では「マクドる」と言うらしいのです。この違いは動詞化する前に短縮形「マック」と「マクド」がすでに存在しているで、そこに「る」が付いているわけです。
ここで、言語学の分野ではもう議論され尽くされてきた感がある「ら抜き」、つまり一段動詞の可能形も五段動詞にならって、語幹に「られ」ではなく「れ」を付ける傾向が見られる現象を考えてみましょう。たとえば、「食べられる」や「見られる」ではなく「食べれる」「見れる」というのが「ら抜き」です。こうした言葉の変化は通常、若者の間で広まって行くことから、「今どきの若い人はちゃんとした日本語使わない」という批判がある一方で、多くの言語学者は「ら抜き」は日本語の乱れというよりは論理的な変化であると説明してきました。一段動詞と五段動詞の受身形、使役形での規則的な相違から、一段動詞の可能形が「ら抜き」であるほうが論理的であり、整合性があるという説明です。しかも「食べられる」だったら受身なのか可能なのかが不明瞭ですが、「ら抜き」なら受身形と可能形の区別も明確です。もちろん、こうした説明はすべて「ら抜き」の整合性の説明で、若者や日本語学習者がこうした分析を頭の中で即座にしているとは考えがたいわけです。「ら抜き」をラ行五段動詞、すなわち「帰る」や「入る(はいる)」のように語幹が“r”で終わる子音動詞が日本語における動詞のプロトタイプとなっていることからの類推的拡張・単純化だと捉えれば、「ら抜き」現象の説明はずっとシンプルなものになるでしょう。
2010年2月5日 掲載