小野尚之(東北大学教授)
ある日、山道を車で走っていると、急なカーブにさしかかったところで次のような看板が目に飛び込んできた。
「命落とすな、スピード落とせ」
私は、思わずブレーキを踏んでいた。命が惜しかったからではない。この交通標語に隠された面白い問題に気がついたからである。
この標語は「命を落とす」という表現と「スピードを落とす」という同じ「落とす」という動詞を対比させた表現である。しかし、よく考えると、2つのは微妙に違っている。
たとえば、「スピードを徐々に落とす」とは言えるが、「命を徐々に落とす」はおかしい。あるいは、「スピードを落とす」に対して「スピードが落ちる」という言い方はあるが、「命を落とす」には「命が落ちる」という言い方はなさそうである。
さらに、2つの「落とす」の意味が違っている。「スピードを落とす」の方は、「減少させる」や「下げる」という意味に置き換えられるが、「命を落とす」は、むしろ「財布を落とす」などと同じく、「失う」とか「なくす」という意味に近い。
さて、ここまで考えを進めると、皆さんは、ことばの多義性という問題に足を踏み入れたことになる。多義とは、ひとつの単語が2つ以上の意味に解釈されることをいう。言語学でことばの意味の問題を扱う分野は意味論と呼ばれるが、ことばの多義性は、意味を考える上で重要な問題である。
「落とす」の標語の面白いところは、この多義性をうまく利用して、少しだけ異質なものを対比させることによって、印象に残る表現を生み出している点である。
しかし、違う意味のものを並べるといつもうまくいくかと言うとそうではない。多くの人は、次のような表現に違和感を感じるだろう。
「僕は今朝、お母さんに言われてゴミとメールを出した。」
「ゴミを出す」と「メールを出す」をひとつにくくってしまうと、なんだか妙な感じがする。「出す」の意味がかなり異質だからだ。
ところが、違っているからこそ面白い表現が生まれることもある。「スープがさめる」と「恋がさめる」は、異質な「さめる」だが、二つをつなぐとこんなシャレた表現になる。
「スープも恋もさめないうちに」
同じ多義の表現なのにどうしてこんな違いがあるのだろう。残念ながら、その答えはいまだに謎である。
言語学者はいつもこんな風に、ことばの不思議を考えている。ことばの不思議を考え、そしてそれを操る人間の不思議を考えている。
2009年9月25日 掲載