飛田良文(国際基督教大学アジア文化研究所客員所員)
日本語の歴史に興味を持つようになってから、いつも不思議に思っていたのは、日本語はいつから存在したのだろう、という疑問だった。日本人の使う言葉が日本語だと考えると、日本という国家の誕生はいつかということになる。中国の史書では、倭と呼ばれていた国が、日本へ変わるのは「旧唐書」で、倭国と日本との伝がある。しかし、いつ改名したのかは明確でない。また、日本の史書「古事記」と「日本書紀」には、国名に関する記述がない。「日本書紀」の「日本」が日本における最初の用例とすると、西暦720年より前ということになる。
ところが、目を転じて朝鮮の史書をみると、倭から日本への改名の記録がある。これを指摘したのは今から150年も前のイギリス人、W・G・アストンであった。楠家重敏著『W・G・アストン―日本と朝鮮を結ぶ学者外交官―』(雄松堂2005)によると、『東国通鑑』にみえる「670年倭国更めて日本と号す」が紹介されている。アストンの論文は、雑誌Transactions of the Asiatic Society of Japan Vol. XVI 1889 Yokohamaに掲載された”Early Japanese History”である。
また、井上秀雄著『古代朝鮮』(日本放送出版協会1974)にも『三国史記』文武王10年(670)12月の条に、「倭国は国名を日本と改めた。自分では日の出るところに近いからこの名にかえたといっている」とある。朝鮮の文献には、このように西暦670年と明記されている。
日本では西暦670年は天智天皇の大化9年にあたり、全国的に戸籍「庚午年籍」の造られた年である。新国家の基礎が確立した年ともいえるだろう。またこの年『新唐書』には倭国が唐へ高句麗平定の祝賀使節を派遣している記事がある。日本にとっても、大きな節目になっているといえるだろう。もし、西暦670年が日本国の誕生年なら、ここが日本語の歴史の出発点になるはずである。それ以前は倭語の歴史ということになろうか。
このように、外国の文献に明記されているものが、どうして討議の対象とならないのであろうか。少なくとも、日本史の研究者が中国や朝鮮の史書に注目しなかったということは指摘できるだろう。幕末明治初期の日本にやってきた外国人の研究に目を向けていないことも問題である。日本語に関心をもつ人は、広い視野から、W・G・アストンの説や朝鮮史料を検討してみようではありませんか。
2008年2月15日 掲載