言語学者が共通して持っている3つの心

田中伸一(東京大学准教授)

 5年間大学院で英語学・言語学を学び,14年間大学や大学院で教えてきて思うのは,学者というものは完璧主義型と自由奔放型のタイプの違いこそあれ,共通してほぼ3つの心を備えているということである。これは言語学を専門とする研究者だけでなく,他の専門の学者にも成り立つことと思える。なぜこんなことを意識して考えるのかというと,分野の発展のため1人でも多くの良き言語学者を育てなければならない関係上,その有無を見極めるのも仕事の1つだからである。また,いつも初心を忘れないために自戒を込めるためでもある。

 まずは,「不思議がる心」。息の長い言語学者は,たいてい言語現象の不思議に魅せられてこの道に入ったのだということ。私の場合も,やはり大学4年生の時に英語のリズムという現象そのものに,不思議さと美しさを感じて英語学の門を叩いた。最初から理論そのものが面白いと思って入門する人もいるが,危険もある。理論には流行り廃りがあって,信じていた理論が時代とともに変わったりすると,ついていけなくなることもあるからである。理論は手段であって目的ではないと思った方が身のためであろう。理論が宗教になってしまうのは危険で,アカデミックに優秀な教祖ほど妄信的な信者を突き放してしまうものである。しかし,現象の不思議さそれ自体は,枠組みや時代を越えた普遍性を持つのではあるまいか。

 次に必要なのは,「つきつめる心」。不思議がる心は,ある意味で誰にでもある。普通の人はそのままで終わることも多かろう(終わっても何も悪いことはないが)。しかし,そんな不思議が「なぜ」成り立っているのかを解明し問題解決するためには,方法論の習得という時間のかかる作業を経なければならない。そこで,理論の登場である。不思議な現象はそれ自体に価値がある可能性はあるが,他人から共感を得られなかったり理論的な意味付けなしに提示したとしても,「それが何?」で終わってしまうことも多い。その現象が「なぜ」起こり得るのかを客観的に説明し,その解明にどのような意味があるのかを多くの人に向けて明晰に提示するには,何がしかの理論の援用が必要であろう。

 そして最後に,重要であるにもかかわらず見過ごされがちなのが,「わからないことを受け入れる心」。一般に,理論の学習というハードルを越えるには時間がかかる。時として,学力が高くて理解が早い人はたやすく越えてしまう場合もあろう。しかし,学力や理解力が高い人ほど自分をよく見つめ知ることができるので,どうしてもわからないことが出てくると,自分の能力の限界だと思ってしまう落とし穴もある。いわば精神のバランスがとれなくなり,自分を(時として,分野を)見切ってしまうのである。才能に溢れながら,なんともったいない。私の場合は学力も理解力も平均的で,そのような心配はいらなかったが。

 結局,学者であるための心を最後まで保つには,わからなくてもいいやという,ある種のいい加減さが必要だということである。しかし,そのいい加減さは自信に裏打ちされたものでなければならない。そして,その自信は,不思議なことをつきつめてきた努力の蓄積からくるものであろう。

 あなたの周りを良く見て欲しい。わからないことをわからないと素直に態度で教える先生ほど,頼りになることこの上ない。逆に,知ったかぶりをしたり権威を振りかざしたり(質問させないような雰囲気づくりをしたり)する先生ほど,うさん臭いことこの上ない。自分を守るのに必死な見せかけの自信と,良い意味でのいい加減さと自由な心からくる自信は,似て非なるものであろう。しかし,わからないから言語学をやるのだし,わからないことがなくならないからこそ,すべての言語学者はおまんまの食い上げにならなくて済むのである。

2007年9月28日 掲載